『菊と刀』の真価はどこにある?

それは地動説登場以来最大級の知的転回への入り口であることです。

この本で示される衝撃的真実



☆ 次の英文をどう訳しますか?

I took seriously the way hundreds of details fall into over-all patterns.

これはルース・ベネディクト著『菊と刀』(The Chrysanthemum and the Sword - Patterns of Japanese Culture)の第1章にある文ですが、ここにある'the way'というありふれた言葉を世界中のほとんどすべての読者が正しく理解しませんでした。長谷川松治氏はこの文を「私は何百もの個々の事象が、どんなふうに総合的な型(パターン)に分類されているか、という点を重視した」と訳しました(1948年)。また角田安正氏はこう書きました。「わたしが重視したのは、無数のささいな行動がどのような具合に全体的なパターンに収まるのかという点である」(2008年)。そしてさらに越智敏之、越智道雄両氏は「何百もの細目が総合的なパターンに落ち着く様子を、私は真剣に考察した」と訳しました(2013年)。

不思議なことに『菊と刀』を真面目に読んだ四人の翻訳者がそろって'the way'を「道」と訳すことを避けました。これはベネディクトがなぜそこに'the way'という言葉を使ったのかということを知らなかったからです。言い換えると彼らは『菊と刀』の一番重要な点を全然理解していなかったのです。そして彼らの訳本を読んだ人たちも、訳本に頼らずに原文を読んだ人たちも、日本人ばかりでなく英語の国の人たちもそれを深く考えようとはしませんでした。 


☆ ベネディクトは無意識を問題にした

ベネディクトがそこにその言葉を使ったのは人間の無意識の中で起こる過程を問題にしたからです(詳しくは拙著をご覧ください)。無意識的過程を直接表現する言葉はいかなる言語にもありません。文化の型は意識されないものですが、それは思考や行動の型(これは意識的で、視覚や聴覚によって見分けられるものです)が形成されるときにどんなすじ道(the way)を経由するかを調べることによってはじめて知られるのです。Aと、Bという二つの部族又は国民(ここでは個人ではなく、集合体を指します)が或る主題に関する思考と行動の型という点では似ていたとしても、その型を成立させたすじ道が違うという場合があります。そういう場合にはAの文化の型とBの文化の型が違うと考えなければなりません。

文化の型が違えばいろいろな事柄に関する価値観が違ってきます。その違いは無意識的なものですから、時にはAとBとの間に誤解や軋轢が起こり、甚だしい場合には重大な悲劇に至ることがあります。そういう誤解ないし悲劇は人々の意識的思考や行動を見ただけでは理解も解決もできません。このことに気付かなかった翻訳者たちは'the way'という言葉があるのを見ながらそこに「道」という字を使うことを躊躇して「どんなふうに」とか「どのような具合に」とか「様子」などという曖昧な言葉でごまかしました。しかしそこに現れる特徴的なすじ道こそが特定の文化の型を反映するものであることを知れば、そんなごまかしではなく、はっきり「道」という字を使った訳文を書いたはずです。 

☆ 人間観の大転換へ

『菊と刀』が書かれてから七十年も経ちましたがこの種の基本的な諸問題が真剣に論じられたことは、森貞彦の一連の著書(いずれも21世紀に入ってから書かれました)以外では一度もありません。世界中どこの国でも、誰もが分かったつもりで実は分かっていなかったのです。何故分からなったのでしょう。それは西欧人の社会の根底にある罪の文化がデカルト以来の理性主義(合理主義)――それは個人主義と固く結びついています――を強く支持しているからです。このために彼らは一定の社会を構成する多数の個人が共通の集合的無意識を持つという説をなかなか信じません。そして日本人の多くは、無意識的に恥の文化にとらわれているので、西欧人が信じない説を信じるのが何だか後ろめたいことのように思ってその問題に取り組もうとはしません。

しかし個人主義は決して人間の本性に由来する普遍的な思想ではなく、西欧という一地方の文化から生まれたものにすぎないことに注意すべきです。これはユングの高弟ノイマンが人間の意識の発達を研究して明らかにしたことで、わが国でも林道義氏が支持していることです。残念ながらノイマンも、林氏もベネディクトの研究の意義を十分呑み込んでいなかったために『菊と刀』を高く評価するには至りませんでした。でも、それを詳細に検討すればそこに人間とは何かという大問題に重大な影響を及ぼす可能性のある事実を読み取ることができるのです。すなわち各個人がそれぞれ独立した精神を持っていると考えるのは西欧的自文化中心主義であり、実際には人間の集団が共有している集合的無意識が各個人の行動の主要な部分を支配していると考えないわけには行かないのです。これは、かつてコペルニクスによってもたらされた宇宙観の転換に劣らぬ規模の大転換が今まさに我々の人間観の上に起ころうとしていることを意味します。

☆ この本の狙い

 しかしながらその全貌を明らかにするのは性急にできることではありませんのでそれは次代の研究者たちに委ねます。この本で筆者は、上で「誰もが分かったつもりで実は分かっていなかった」と言い表した事柄について、それが「つもり」でなく本当に分かってきたときにどんなものが眼前に現れるかの概略を指し示します。例えば、デカルトの『方法序説』の要(かなめ)に当たる段落にはベネディクトの言う意味での罪の文化が色濃く反映していますし、松下幸之助の伝記と彼の著書『実践経営哲学』からの引用文では(俗流ではなく)正しい意味での恥の文化がはっきりと浮かび上がるのが見られます。それらを見れば、知的好奇心のある人ならば必ず深く追究したくなるに違いありません。

☆ この本の要項

書名: 「菊と刀」から見渡せば ― 理性を超えた地平の風景

著者: 森 貞彦

サイズ: A5版、246ページ

出版社: 風詠社

   〒 553-0001 大阪市福島区海老江5-2-7

   ニュー野田阪神ビル402

   Tel. 06-6136-8657 Fax. 06-6136-8659

   https://fueisha.com/

ISBNコード: 978-4-434-22603-8

定価 本体1,500円+税

********** (以下はこのHPの付録です) **********

★ 付録1 『「菊と刀」から見渡せば』の「まえがき」(全文)

 今から四百年前(1616年)にガリレオ・ガリレイはローマ教皇庁から、以後地動説を唱えないよう注意を受けました。彼がそれに従わなかったので後に厳しい異端審問をされ、肉体的危険を告げられてやむを得ず地動説を放棄したのは有名な事実です。それにもかかわらず地動説はケプラー、ニュートン等の研究を通じて真理であることが確認されました。

 歴史家はこれを理性の勝利と位置付けました。実際、西欧の中世を通じて人間の思考を支配したのはキリスト教の信仰でしたが、これが改められたことには確かに大きい意義がありました。この出来事に始まる科学革命を経験した西欧人は、啓蒙思想を広め、アンシャンレジームを打破し、産業革命を推進し、政治、経済、軍事等における飛躍的進歩によって世界的覇権を獲得しました。そして西欧の文明は地球全体を覆うに至りました。

 しかし注意すべき事には、歴史はその文明が万全でないことを徐々に明らかにしてきました。近代の文明は一面においては確かに人間の生活水準の向上をもたらしましたが、他面においては世界全体を非常に危険な状態に陥れつつあるのです。事実、殺人と破壊の技術の飛躍的進歩は二十世紀に二度にわたって大規模な戦争をもたらし、世界史上類例の無い惨禍を実現しただけでなく、いまもなお人類を絶滅させるに足る量の何倍もの核兵器を蓄えています。そればかりか、ある種の物質による環境破壊も、情報処理技術の無秩序な発達による政治、経済、文化等々の大規模な攪乱も大きい問題として浮上しつつあります。それらの危険はいずれも人類の存亡にかかわるものであることを忘れてはなりません。

 筆者は人類が何か大きい忘れ物をしたのではないかと反省すべき時が来たと思います。その反省において筆者が最も重視する事柄は、人々が人間の理性に過度の信頼を置き、理性以外のものを軽視した点にあります。その反省の機縁は19世紀の末期に芽生えました。ニーチェとフロイトが無意識に注目したのです。彼らはそれを個人の問題として扱いましたが、やや遅れて登場したユングは無意識を社会の問題として扱う道を開きました。これらは人々の理性に対する信頼を大幅に修正する可能性を秘めていますが、その点に注目した人は僅かでした。その僅かな人々の中にルース・ベネディクト(1887-1948)が居ました。

 しかしながら理性は17世紀に打破されたキリスト教会の権威より遥かに強固な地盤をすでに人間の精神の内に築いており、現代の文明の基礎を固めたという実績を持っています。人間の無意識に価値を認め、理性の価値を限定する思想を人々に説こうとしても、宇宙観を天動説から地動説に切り替えたとき以上に大きい抵抗があるのは当然です。そのためもあって、ベネディクトの立場は微妙でした。彼女はガリレイの轍を踏まないために細心の注意を払わねばなりませんでした。現代もまた世間の常識を超えた所に真理を見出す人にとって危険な時代なのです。その危険は、時にはヒットラーやスターリンのような独裁者の形を取ることもありますが、民主主義国でも例えばマッカーシズム(1)のようなことが起こり、政治家や官僚ばかりか学者や文化人までが職業的生命を絶たれることがあり得るのです。

 こういうことが理解できるので筆者は努めて『菊と刀』の行間を読み、ベネディクトの真意がどこにあるかを探索しました。彼女は執筆に当たって「無意識」(unconscious)およびそれから派生する語句をできるだけ使わないように気を付けたようです。このため文化の型が無意識の中に存在することについては簡単に理解できる説明がありません。これがほとんどすべての読者に「文化の型」が理解されなかったことの原因と思われます。それで筆者はこの本の序章に文化の型の説明を掲げました。その後の諸章は文化の型とは何かを理解することによって従来気が付かれなかったいろいろなことが見えるようになることを説明するものです。

 したがってこの本の役割を手短に言うと、文化の型についての理解を確立することです。筆者はその理解を確固たるものにすることによって人間存在に対する認識が改まり、文明の危機に対処するために無意識を深く研究する機運が醸成されることを念願しています。

なお、本書の本文中では人名の敬称を省略させていただきます。

 *注:(1) 1950年2月にアメリカ合衆国上院議員マッカーシーが国務省内に多数の共産分子がいると言い出し、その追放を求めたことから始まる反共運動。リベラル派の官吏・外交官・軍人・文化人をすべて共産主義者と決めつける、ヒステリックな「赤狩り」が行われた。しかし1954年末には、マッカーシーは失脚し、この運動は静まった。

★ 付録 2 『「菊と刀」から見渡せば』の目次(要約)

まえがき ...................................................................................   3

序 章   文化の型について ................................................ 13

  • 誤解とその由来
  • 文化の型とは何か
  • 恥の文化と罪の文化

第1章   罪の文化の国の人たちが見える ...........................  31

  • ルネ・デカルト ― もはや超えられるべき天才
  • ロバート・マクナマラ ― 罪の文化人らしさ
  • ノラ ― 罪の文化の社会の被差別者の行路
  • レルモントフ ― 映画『赤い靴』における罪の文化
  • カルメン ― ジプシー的「自由」の果ての悲劇

第2章  恥の文化の中に生きた人々が見える ........................  65

   小説『羅生門』の下人 ― 恥の文化における行動の

       型形成のすじ道の例

      福沢諭吉 ― 鋳直しの事例としての『学問のすすめ』

      松平忠直 ― 殿様といえども恥の文化に反する生き方

          は許されない

おはん ― 日本文化の型を絵に描いたような女性

松下幸之助 ― 経営の神様と恥の文化

柳町隆造 ― 恥の文化の国から流出した「異脳」

日本の機械製造現場の人々 ― 近代工業と恥の文化

との狭間

第3章  理解しそこなった先生たちが見える ........................... 147

  祖父江孝雄 ― 『文化とパーソナリティ』における誤解

    作田啓一 ― 『恥の文化再考』における本質的誤解

    三島由紀夫 ― 民衆を忘れた「文化防衛論」

    C・D・ラミス ― 『内なる外国』に見られる過誤

    中根千枝 ― 『タテ社会の人間関係』は古典物理学

          に擬せられる

   河合隼雄 ― 示唆に富む言葉を残した碩学 

   中村雄二郎 ― もう少しで「文化の型」に到達できた

          二十世紀人

終 章   私たちは何を為すべきか ....................................  235

   個人主義の見直し

   真実を貫くこと

   理想の追求

あとがき ..................................................................... ........ ..... 244

 ⓒ森貞彦(2016)

 

無料でホームページを作成しよう! このサイトはWebnodeで作成されました。 あなたも無料で自分で作成してみませんか? さあ、はじめよう